雲中午睡庵

小さな庭いじりや子連れ山登りなど写真を添えて

【子連れ登山記7】富士山を見ながら山頂で花見~百蔵山

4月に入って2回目の日曜日、山梨県大月市の百蔵山に出かけた。
富士山の眺めが良いこの山。山頂には桜が植わっていて、この日は丁度満開。思いがけず、富士山を眺めながらの花見ハイキングを楽しんだ。

【データ】
<日付>2023年4月上旬
<ルート>登山口駐車場ー百蔵山ー登山口駐車場
<メンバー>中学1年生女子と娘の友だちの父親と自分
<難易度>3時間程度歩ければOK

山頂から富士山と桜:PENTAX K-1 Mark II, D FA 21mm F2.4 Limited, f/22

1.思いがけず百蔵山へ

2人目の娘が中学に進学した4月、荒船山四阿山も同行した娘の友だちのお父さんと、僕と娘の3人で山へ出かけた。
前回、四阿山を登った際、子どもたちも中学生になると、なかなか付き合ってくれなくなるかなと思い、それでも折角一緒に山に行くようになった関係が無くなるのも寂しく感じて、子どもたちが一緒に行ってくれなくなっても山に行きませんか?と話していた。そしてまた山に行くことになり、子どもたちにも声をかけてみたところ、うちの子は行く、あちらの子は行かない、となり、今までと違った組み合わせの3人で出かけることになった。

前回、四阿山の時は、あちらに車を出してもらったので、今回はうちの車で行く。

朝7時半、埼玉を出発。首都高から中央道を進む。天気は快晴。時折車からも見える富士山に期待は膨らむ。日曜日の朝の道路は渋滞もなく、快適に大蔵高丸、ハマイバ丸を目指す。

ここで、あれ?タイトルと違う、と気づいた方もいるかもしれないが、当初は百蔵山に行く予定ではなかった。

大月で中央道を下り、笹子峠国道20号のトンネルでくぐる。武田家終焉の天目山周辺を通り、時間があったら帰りに寄っていきましょうか、などと話しながら車を走らせ、大蔵高丸の登山口、湯ノ沢峠へ向かう林道に入る。

ところが、林道をしばらく進むとゲートが閉まっていた。
この先、峠への道は冬季通行止めなのだそうだ。雪の少ない山梨で、4月に入っても冬季通行止めになっているとは思いもしなかった。
きちんと調べればわかることだったので、迂闊だったとしか言いようがない。
公共交通機関でなく、マイカーを使って登山口に向かう際は見落としがちだと学んだ。

付近には駐車スペースもないため、大蔵高丸、ハマイバ丸をあきらめ、とは言え、折角早起きして山梨まで来て、時間もまだ十分にある。
そこで、大菩薩峠に行こうかと話し、日川をさらに遡ると、こちらも冬季通行止めで登山口にたどり着けない。

それでも行けそうな手ごろな山、ということで、かねて今年小学校に入学した末っ子でも行けそうな手ごろな山として目をつけていた百蔵山を目指すことにした。

2.駐車場から頂上へ

こうして始まった無計画な登山。目的地を百蔵山に変更したことを、自宅に残る家族にメールで伝えてから登る。よろしくはないけれど、行方不明になったとしても、これで一応目星はつくだろう。

大月市下和田の登山口駐車場は5~6台が停まれるくらいのスペース。途中、離合不能な道も長いので、計画的に百蔵山に登る場合は、もっと麓の駐車場を使うか、電車・バスを使う方が良いと思う。

駐車場から百蔵山に登る道は2つあり、周回することができる。今回は駐車場からすぐ登山道に入る西側のルートから登った。
登り始めは杉木立の中。けれども少し登ると、大きな松の木が並んだ展望のある広場に着く。

松と富士山:PENTAX K-1 Mark II, smc FA43mm F1.9, f/5.6

松の木と富士山の組み合わせ。なんだか白砂青松の海岸か、浮世絵の世界みたいだ。ただし、ここは山の上なので白砂はない。

麓の町も、春の日差しに包まれて暖かそうだ。

登山道の途中からの麓の眺め

中央道が大きくうねって目立って見える。

この辺りから上は落葉樹が増え、枝の間から周りの山が見える。隣の尾根は新緑が目に柔らかい。

頂上付近も松が多い。

頂上付近の松

この山は松がよく育つ気候や土壌なのかもしれない。

3.富士山を見ながら山頂で花見

登り着いた百蔵山の山頂は満開の桜が迎えてくれた。山頂はかなり広くて、この日も20人ほどの登山者が、思い思いの場所で寛いでいて、それでもまだ余裕があった。

百蔵山山頂の桜

山頂の桜は下界によくあるソメイヨシノに見える。
ソメイヨシノはたしか野生種ではないはず。ということは、近所の公園の桜のように、誰か人が植えたものなのかもしれない。

深い山の中で人工の物を見るのはあまり気分の良いものではないけれど、百蔵山のように人里に近い、半ばピクニック気分で登れる山ならば、そうした趣も悪くない。
山の上で、富士山と桜を眺め、ついつい長居してしまった。

百蔵山山頂から富士山と桜と松

4.新緑の中を下山

下山は登りと違う東側のルートを使った。

コースタイム的には登りのルートと大差ないけれど、下りのルートは登りのルートのように、展望の開ける場所はない。
その代わり森は落葉樹が多く、新緑の季節、薄緑の光の中を歩くと心が浮き立つようだ。

新緑の下山路

道中、ツツジも咲き始めていた。

新緑の中咲くツツジ

そして、道端に2カ所ほど、道祖神もあり、昔から人々に親しまれてきた山だということが分かる。

麓近くの道祖神

下山の道すがら、同行した娘の友だちのお父さんと、以前、子どもたちを連れて一緒に行った山の話をしたのだけれど、所々、互いに「そんなことありましたっけ?」というように記憶が抜けている。

子どもの頃は今と比べて記憶力が良くて、色々と覚えていると、自分というものは、ずっと続いているものだという感覚が当然のこととしてあったけれど、年をとり、こうして自分のしたことですら、きれいにすっぽり記憶から抜け落ちたりしていると、自分自身の同一性ですらそんなに確固としたものでなく、やや曖昧模糊としたものなのかもしれないと思えてくる。

そんなことを中学生になった娘に話しながら歩く。

今は恥ずかしいと感じるような自分の過去の失敗であっても、年をとると忘れたりできるし、細かいことならば他人は大体忘れているだろうということが実感として理解できるようになってくる。
だから、年をとるのは、悪いことばかりではない。

そしてもし、くよくよするようなことがあったとしても、大体のことは、それほどくよくよしなくても良かったりするということも年をとるとよく分かる。

そんな感覚を子どもたちに、何かのついでに伝えられるといいなと思っている。